清水の夏は、「かっぽれ」で始まる。
小学生の頃に初めて参加してから
社会人となった今に至るまで、
長年に渡って参加してきた。
清水みなと祭りの一角で、
夕暮れが街を染める頃に
太鼓の音が鳴り始める。
最初の頃はリズムも覚束ず、
ただみんなと同じ方向を向こうとすることに必死だった。
真夏の昼間の灼熱の熱さが残る中で踊るのは、体力も気力も消耗していく。
けれど不思議なことに、踊り終わると
「まだこの空間で踊りたかった」
という気持ちになる。
身体で港町の熱気を感じ、
鳴り響く音で心臓が楽しく跳ねる。
あの時間だけは、
日常の悩みがすべて足元に流れていく気がした。
そんな私が
実石沙枝子さんの『踊れ、かっぽれ』を読んだのは、かつて所属していたチームが解散し、新しいチームに移ったばかりの頃だ。
いつもの駅中の書店の店頭で、
このタイミングに出会ったのは運命のようだった。
導かれるようにして、
私はこの一冊を手に取った。
皆が揃って踊れるという奇跡
作中で特に心に残ったのは、
主人公である望月夏希のおばあちゃんの言葉だ。
「今年踊った連衆が、来年もみーんなそろうってのはねえ、奇跡みたいなことだよ」
この一言が胸に刺さったのは、
きっと私自身も“別れ”と“再出発”の間にいたからだと思う。
祭りというのは、
一見すると毎年同じように繰り返される行事だ。
けれど実際には、参加する人も、
立つ場所も、踊る意味も、
少しずつ違っている。
去年と同じ顔ぶれで
同じリズムを踏めることが、
どれほど尊く、脆いことか。
解散したチームの最後の夏の夜を、
私はきっと忘れない。
あの時の賑やかな音や笑い声は、
今もどこかでこだましている気がする。
この作品に出てくる人たちの心の揺れや、
どこか切ない一体感を読んでいると、
その記憶が鮮やかに蘇る。
踊ること、生きること。
この作品に登場する人たちは、
皆何かを抱えている。
どこにも吐き出せなかったその「何か」を、踊ることで晴らし、乗り越えて成長していく。
そんな部分も垣間見えるのが、
この作品の魅力的なところだ。
この祭りで踊ることを、単なるイベントの催しとしてではなく、
「なんとか昇華させて、大変でも、生きていく」ための力になることを、
一貫して描いているように思えた。
病を抱え、夢を手放し、
懸命に自分を立て直そうとする。
そんな人たちが集まり、
ひとつひとつの動作をそろえて、
夜の港町に舞う。
その瞬間だけは、彼らの抱えた疲れや痛みが、汗の中に溶けていくのだ。
それはまるで、
「生きている。それこそが踊っているようなものだ」という肯定の声に、
背中を押されるようだった。
私自身も踊るたび、心がどこか軽くなる。
汗をかいて息が上がり、音が遠くなるほどに、
身体の深い部分が再び目を覚ますような感覚になる。
「踊り」という名の儀式の中で、
人は生き直していくのだ。
本番の匂いと湿度と、温度
物語の終盤、本番のシーンが描かれる。
その描写を読んだとき、
思わず息を飲んでページを閉じた。
風、光、太鼓の音、
地面から伝わる熱の温度ーー。
すべてが、
目の前で起きているように感じられた。
読んでいるうちに、
自分の足に地面の感触が蘇り、
背中に浴びた汗の冷たさまで思い出した。
こんなふうに身体の記憶を呼び戻せる小説は、本当に稀だと思う。
この作品には、その場にいたことのある人間にしか書けない”呼吸のリズム”がある。
単なる描写ではなく、
「踊りの中で世界がどう流れているか」という”時間そのもの”を捉えている。
作家を目指す者として読んでみても、
この描写の力量には圧倒させられた。
動きだけを描くのではなく、
”その動きが終わった後の静けさ”まで見えてくる。
踊りは一瞬で終わるけれど、
そのあとの余韻こそが本当の物語なのだと思わされた。
ご縁というリズム
この『踊れ、かっぽれ』を読み終えたあと、
私は不思議と静かな勇気をもらっていた。
”いつもと同じように”来年また踊れること。それがどれほどの幸せかを、改めて感じた。
解散、新しいチーム、出会いと別れ。
それらすべてが、「ご縁」という一つのリズムで繋がっているのかもしれない。
「どうにかなる」
それは踊ることだけではなく、
あらゆることに言えることだと思う。
例えばそれは、書くことにも言えるだろう。
言葉を通して自分を少しずつ解放していくように、
踊ることもまた、人を癒していく動作だ。
だからこそ、私自身も”書くこと”を選び続けていきたいと思う。
ページを閉じたとき、
私の中のリズムは終わりを告げるどころか、
その強さをどんどん増していっていた。
太鼓の音が、どこかで鳴っている。
来年もまた、
私はこの音のどこかに立ちたい。
そしてその瞬間を、
ひとつの祈りのように踊るのだろう。
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